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翌日の業務を終え、村野はMRI操作室に隣接するスタッフ室でノートを開いた。
来月、学生に最初に何を話すか。圧縮センシングの参考書を開く前に、それだけ書いておくつもりだった。

MRIは、体の断面の写真を撮る装置です

一行書くと、次が出てこなかった。
操作の手順なら説明できる。けれど、画像になる前の信号と言われると、頭の中が白くなる。
村野は「写真」に二重線を引いた。紙が少しへこんだ。

「初日から力が入ってるな」

帰り支度をした郡司が足を止めた。

「CSに進む前に、手が止まりました。フーリエ変換からです」

郡司に頼んだ時より、口にするのに勇気が要った。

「じゃあ、そこを通ろう。昨日の話で、教材を一つ用意したんだ」

郡司は鞄を置き、机の教育用PCを開いた。
画面に映し出されたのは、脳MRIの画像データと、簡単な画像処理プログラムだった。病院のMRI装置には接続されておらず、画像を使って原理を確かめるための教材だ。

「まず、この脳画像をフーリエ変換して、k-spaceのデータを計算してみた。実際にMRI装置が収集した生データではないけど、画像とk-spaceの関係は確かめられる」

画面には、二つの図が並んでいた。
左側には、普段から見慣れている脳の断面画像。
右側には、細かい格子で区切られた正方形の図が表示されていた。
右側は、k-spaceのどのデータを残すかを示した模式図だった。格子の中央にある四角い領域だけが白く、それ以外は灰色になっている。

「この白い部分だけを残して、ほかのデータをゼロにしてみよう。逆フーリエ変換で画像に戻すと、どうなると思う?」

村野は左右の図を見比べた。

「つまり、k-spaceの真ん中だけを残すんですよね?」

「そう。脳画像の真ん中を切り取るわけじゃないからね」

そう言われても、村野には違いがよくわからなかった。

「……頭の真ん中だけ残るんじゃないですか?」

郡司は笑った。

「じゃあ、実際にやってみよう。その前に、今の予想をノートに書いておいて」

村野は少し迷ってから、〈頭の中央だけが残る〉と書いた。
そして、実行キーを押した。

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画面に現れた画像を見て、村野は思わず顔を近づけた。

「……あれ?」

頭の中央だけが残ると思っていたのに、実際には頭全体が写っている。
ただし、どこか様子がおかしい。
元の画像でははっきり見えていた細かな溝や境界が、ぼんやりしている。

「全体が残っている。でも、ぼやけてる……」

「そうだね。なぜだと思う?」

村野はノートに、脳の輪郭とk-spaceの格子を描いた。
格子の中央に一つ点を打ち、その点と脳画像の中央部分を線で結ぼうとする。
しかし、ペン先が途中で止まった。

「……これ、違うんですよね?」

「何が?」

「k-spaceの一点が、画像の一点に対応していると思っていました。でも、それなら頭の中央だけが残るはずです」

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郡司はうなずいた。

「そう。k-spaceの一点は、画像の一画素を表しているわけじゃない」

「じゃあ、何を表しているんですか?」

郡司はノートの空いているところに、ゆっくり二つの縞模様を描き始めた。
一つは白と黒の幅が広い縞模様。もう一つは、細かな白黒が繰り返される縞模様だ。

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「和音を録音して、どんな音が混じっているのか調べる話を聞いたことはある?」

「あります。でも、MRIも音を分けるって言われると、そこでいつもわからなくなるんです」

「ああ。例えから戻る道が必要なんだな」

郡司は縞模様を指した。

「音は、時間あたりに何回振動するかで周波数を表すよね。でも画像では、距離あたりに明暗が何回繰り返されるかを考える。これを空間周波数というんだ」

「白黒の幅が狭い方が、高い空間周波数?」

「そう。画像は、こういう間隔や向きの異なる波を、いろいろ組み合わせて表すことができる。大まかな濃淡の変化には低い空間周波数が、細かな変化には高い空間周波数が関わるんだ」

「じゃあ、さっき残したk-spaceの中央は、大まかな形の情報だったんですね」

「その『中央』、何の中央ですか?」

突然、戸口から声がした。
資料を取りに来た同僚の高瀬美咲だった。

「えっ?」

村野が振り向くと、高瀬は机の上のノートに視線を落とした。

「村野さん、最初は脳画像の中央部分が残ると思ったんですよね?」

「……はい」

村野は、書いた予想を思わず手で隠そうとした。
しかし高瀬は、少し笑って言った。

「その予想、消さないでくださいね。間違った理由を考える方が、理解につながりますから」

村野はノートから手を離した。

「それと郡司さん。『中央』だけだと、また誤解するかもしれません。k-spaceの中心に近い低空間周波数の領域、と言った方が正確だと思います」

「確かに、少し省略しすぎたな」

郡司は頭をかいた。

「でも高瀬さん、最初から専門用語を全部並べると、今度は何も頭に入らなくなるよ」

高瀬は少し考えてから答えた。

「それもそうですね。じゃあ、村野さんが一番わからないところから考えましょう」

村野は正直に答えた。

「そもそも、MRI装置はどうやって空間周波数のデータを収集しているんですか?」

郡司は少し考えてから答えた。

「MRIには、傾斜磁場っていう仕組みがあるだろう?」

「はい。周波数エンコードとか、位相エンコードとか……」

「そう。その傾斜磁場を使って、場所によって磁化の回る速さや位相に違いをつけるんだ」

郡司はノートに簡単な図を描いた。

「例えば位相エンコードでは、場所によって磁化の向きに差をつける。どのくらい位相がずれるかを変えながら信号を測るんだ」

「それが、k-spaceの縦方向のデータになるんですね」

「一般的な撮像ではね。一方、横方向は読み出し中に時間とともにデータを収集する。こうしてk-spaceを埋めていくんだ」

村野は少し考えた。

「でも、なぜそれで画像になるんですか?」

「そこを厳密に説明するには、傾斜磁場とフーリエ変換の数学的な関係まで理解する必要がある」

郡司は、先ほどの縞模様を指した。

「でも、今日の目的は圧縮センシングを理解するための準備だろう?」

「はい」

「だったら、まずはk-spaceの一点が、画像の一点ではなく、画像全体に関係する波の成分だということを押さえよう」

ChatGPT 画像 2026年10月18日 22_09_37-1

村野はうなずいた。

「じゃあ、k-spaceに集めた成分を組み合わせて画像に戻すのが、逆フーリエ変換なんですね」

「そう。詳しい計算は、また必要になったときに勉強しよう」

「……少し安心しました。今日だけでフーリエ変換を全部理解するのかと思いました」

郡司は笑った。

「そんなに簡単なら、俺も学生時代に苦労してないよ」

その会話を聞いていた高瀬が口を開いた。

「ただ、わからないままでいいという意味ではありませんよ」

村野は振り向いた。

「今日、何を理解したのか。それから、何をまだ理解していないのか。その二つを区別しておけばいいんです」

村野はノートに書き加えた。

k-spaceと画像の関係は理解した。傾斜磁場からフーリエ成分が得られる詳しい仕組みは、まだ勉強が必要

「これでいいですか?」

高瀬は小さくうなずいた。

「ええ。わかったふりをするより、ずっといいと思います」

高瀬は手に持っていた資料を抱え直した。

「ところで村野さん、もう一つ試してみませんか?」

「何ですか?」

「元の画像を隠して、低空間周波数だけで作った画像を見てください。何がわかって、何がわからないか」

村野は元画像を最小化した。
ぼやけた画像に目を凝らす。

「大きな明暗の分布はわかります。でも、細かな溝や境界は、はっきりしません」

高瀬はうなずいた。

「つまり、元の画像と同じ情報が残っているとは限らないんです」

村野は最初に書いた予想の横に、新しい答えを書いた。

頭の中央だけではなく全体が残る。ただし細部が失われる

「中央がコントラスト、外側が解像度、と単純に分けて覚えるのも違いますよね?」

「そう。低い空間周波数と高い空間周波数は、それぞれ異なる形で画像に寄与している。実際に必要な情報が残ったかどうかは、別に考える必要がある」

高瀬が退出すると、郡司は椅子の背にもたれた。

「高瀬さんには、俺も説明を見直させられるな」

「……少し緊張しました」

「俺もだよ」

二人は顔を見合わせて笑った。
村野はもう一度、元の画像を開いた。
最初は、わからないことを知られるのが怖かった。
しかし今は、画像を変えてみると何が起きるのか、もう少し確かめたくなっていた。

「そういえば、昨日の味噌汁の話ですけど……」

「ああ。小皿ですくう話か」

「少し測れば、全部わかるってことじゃないんですよね」

「そうだ。あれは俺の例えが大ざっぱだった。味見は一口ずつ始めよう、くらいの意味にしておいてくれ」

村野は笑いながら、ノートの最初の一行を見直した。

MRIは、体の断面の写真を撮る装置です

二重線で消された文章の下に、新しく書き加えた。

MRIは、位置の情報を符号化した信号を測り、k-spaceのデータから計算によって画像を作る

「これなら、学生にも説明できそうです」

郡司はうなずいた。

「そうだね。でも、まだ入口だよ」

村野は画面のk-spaceを見つめた。
先ほどの実験では、中央の四角い範囲だけを残し、その外側のデータをすべてゼロにしていた。
では、外側をまとめて消すのではなく、k-spaceのあちこちからデータを間引いたらどうなるのだろう。

「郡司さん、もう一つだけ」

「何だい?」

「さっきは外側をまとめて消しましたよね。今度は、k-spaceのあちこちを飛び飛びに測ったら、画像はどうなるんですか?」

低域通過とアンダーサンプリングの違い

郡司は腕時計を見て、少し笑った。

「それは明日のお楽しみだな」

村野は鉛筆を取った。
今度の疑問は、教科書に押しつけられた言葉ではなかった。
ページの下に、一つの問いを書き加えた。

測らなかった分は、画像のどこへ行く?

技術ノート

CSを理解するためのk-spaceとフーリエ変換

1. MRIは画像を直接撮影しているわけではない

普段、私たちが目にしているMRI画像は、人体から得られたMR信号をコンピューターで処理して作られたものです。
一般的な写真は、光をセンサーで受け取り、それぞれの位置の明るさを記録します。

一方、MRIでは、受信コイルがさまざまな場所から発生したMR信号をまとめて受信します。
そのままでは、どの場所から発生した信号なのかわかりません。
そこでMRIでは、傾斜磁場によって位置に応じた周波数や位相の違いを生じさせ、信号に位置情報を与えます。
こうして取得された信号は、基本的なMRIの撮像モデルでは、画像のフーリエ成分に対応します。
その情報を整理する空間が、k-spaceです。

2. k-spaceの縦軸と横軸は何を表しているのか?

一般的な二次元Cartesian撮像では、k-spaceの横軸をkx、縦軸をkyと表します。
ここでは、画像の横方向をx、縦方向をyとします。

  • kx:x方向の空間周波数
  • ky:y方向の空間周波数

空間周波数とは、画像の明暗を波として表したとき、距離あたりに何回繰り返すかを示すものです。
しかし、MRIの撮像を理解する際には、次のように考えることもできます。

kxは、x方向に位置が変わると、磁化の位相がどの程度変化するかを表す値。
kyは、y方向に位置が変わると、磁化の位相がどの程度変化するかを表す値。

つまり、kxとkyは、位置による位相変化の細かさを示しています。
厳密には位相差そのものではなく、単位距離あたりの位相変化を周期数で表したものです。
なお、一般的なCartesian撮像では、kx方向は読み出し中に時間とともに変化し、ky方向は位相エンコードの設定を変更することで異なる位置を収集します。
そのため、kxは時間と密接に関係していますが、時間そのものを表す軸ではありません。

3. k-spaceの一点は、画像の一点ではない

今回、村野が最初に間違えたのが、この部分です。
k-spaceの中央にあるデータを残せば、画像の中央部分が残ると考えました。
しかし、実際にはそうなりません。
k-spaceの一点は、画像の特定の一画素ではなく、画像全体に広がる一つの空間周波数成分に対応します。

例えば、k-spaceの位置によって、次のような違いがあります。

k-spaceの位置 対応する成分
中心(kx=0、ky=0) 画像全体で一定の成分
横軸上(kx≠0、ky=0) x方向に変化する波(縦縞)
縦軸上(kx=0、ky≠0) y方向に変化する波(横縞)
中心から離れた斜めの位置 x・yの両方向に変化する波(斜め縞)

このように、k-space上の位置は、画像のどこを表しているかではなく、どのような波の成分を表しているかを示しています。
また、それぞれの成分には大きさと位相があります。
さまざまな成分が重なり合うことで、複雑な画像を表現できます。

4. フーリエ変換と逆フーリエ変換

フーリエ変換は、画像をさまざまな空間周波数の成分として表す数学的な方法です。
逆フーリエ変換は、それらの成分を重ね合わせて画像に戻す計算です。
整理すると、

画像 → フーリエ変換 → k-space
k-space → 逆フーリエ変換 → 画像

という関係になります。
ただし、実際のMRI装置は、完成した画像を最初に取得してフーリエ変換しているわけではありません。

MRIでは傾斜磁場を使って、k-spaceに対応する信号を直接測定しています。

その測定データから逆フーリエ変換などの処理を行い、画像を作ります。
なお、ここで説明しているのは、基本的な画像再構成のモデルです。実際のMRIでは、受信コイルの感度や補正処理なども関係します。

5. k-spaceの中央だけを残すと、なぜ画像がぼやけるのか?

k-spaceの中心付近には、低い空間周波数の成分が集まっています。
これらは、画像の大まかな濃淡の変化に大きく関係します。
一方、中心から離れた領域には高い空間周波数の成分があり、細かな構造や境界の描出に重要です。

今回の実験では、k-spaceの中央部分だけを残し、その外側のデータをゼロにしました。
これは低域通過処理と呼ばれる操作です。
結果として、画像全体の大まかな形は残りますが、細かな構造が見えにくくなりました。
ただし、「中央はコントラスト、外側は解像度」と完全に役割を分けることはできません。実際の画像は、それぞれの空間周波数成分が組み合わさって作られています。
また、今回の処理は実際のMRI撮像時間を短縮した実験ではありません。
元画像から計算したk-spaceの一部をゼロにして、画像への影響を確かめたものです。

6. では、k-spaceのデータを飛び飛びに測定したら?

今回の実験では、k-spaceの外側をまとめて取り除きました。
しかし、データを減らす方法はそれだけではありません。
例えば、k-space全体の測定範囲を維持しながら、一部のデータを飛び飛びに取得する方法もあります。

これをアンダーサンプリングといいます。

では、通常より少ないデータしか取得しなかった場合、画像はどうなるのでしょうか。
また、同じ測定データを使っても、画像を再構成する方法によって結果は変わるのでしょうか。
この疑問が、第3話で学ぶ圧縮センシングにつながります。
圧縮センシングでは、画像が持つ特定の性質と実際の測定データを利用して、少ない情報から画像を推定します。
ただし、どのような画像でも完全に復元できるわけではありません。

なぜ少ないデータから画像を再構成できるのか。

その答えを理解するために、次回から圧縮センシングの核心に迫ります。


もっと詳しく学びたい方へ

今回の技術ノートでは、圧縮センシングの理解に必要な部分に絞って説明しました。
k-spaceの各点が傾斜磁場によってどのように取得されるのかを厳密に理解するには、位置エンコードとMRI信号の数学的な関係を学ぶ必要があります。
詳しい内容は、次の資料が参考になります。

参考文献・関連資料

これらの内容は圧縮センシングの理解を深めるうえでも役立ちます。

放射線技師.com