大学病院のMRI検査室は、今日も静かに稼働していた。
新人技師の村野信治(むらのしんじ)は、検査終了後のモニタを見つめながら深いため息をついた。
「……来月から学生実習か。」
ちょうど1年前、圧縮センシング(CS)が搭載された最新MRI装置に触れ始めたときのことを思い出す。最初は操作に戸惑い、スキャンの設定ひとつで汗をかいていた自分も、今ではCSファクターの調整と装置の挙動の関係が体に馴染んできている。
臨床業務で使う分には困らない。だが、原理となると話は別だった。
「スパース性……インコヒーレンス……L1ノルム……ウェーブレット変換……」
教科書を開いては数式に押し潰されるような感覚を覚え、すぐに閉じてしまう。学生時代からフーリエ変換すら避けてきたのだ。そのさらに上にある圧縮センシングを理解できるわけがない。数ヶ月前には参考書の第1章で泣きそうになり、それ以来ページを開くこともなかった。
だが、学生実習が目前に迫っている。「教える立場」になることを考えると、逃げてばかりもいられない。
「……もう腹をくくるしかないな。」
そう心の中でつぶやき、村野はある人物の顔を思い浮かべた。
MRI室の片隅で次の患者の準備をしていたのは、ベテラン技師の郡司淳史(ぐんじあつし)。技師歴20年、誰もが一目置く存在だ。新人から見れば雲の上のような存在だが、穏やかな物腰と的確な指導で後輩からの信頼は厚い。
村野は思い切って声をかけた。
「郡司さん……ちょっと相談があるんです。」
「どうした、村野?珍しく真剣な顔をしてるな。」
「実は……圧縮センシングの原理、まったく理解できていなくて。業務では触れてますけど、学生に説明できる自信がないんです。」
郡司は一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、すぐに柔らかな笑みを見せた。
「正直でいいじゃないか。原理がわからないまま使っている技師は意外と多い。だが、基礎を押さえておくと臨床判断もぐっと広がるんだ。せっかくだから、学生が来るまでに一緒に勉強してみるか?」
「えっ……いいんですか?」
「もちろん。俺だって最初はチンプンカンプンだったさ。安心しろ、味噌汁を丼で飲む必要はない。小皿で味見するだけで十分なんだ。」
郡司の例え話に、村野は思わず苦笑した。
それはまさに圧縮センシングの基本概念──全部を観測しなくても、特徴をうまく取り出せば全体像を再構成できるという考え方そのものだった。
こうして、新人技師とベテラン技師による「圧縮センシング習得計画」が始まった。
村野の心には、不安と同時に小さな期待が芽生え始めていた。
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