その夜、胸ポケットのPHSが突然震え、コール音が当直室に鳴り響く。 「救外CT、交通外傷。意識レベルJCS20、骨盤不安定疑い。すぐに準備をお願いします。」 声は落ち着いていたが、手のひらはにわかに湿っていく。初めての単独当直。時計は22:13、CT室の蛍光灯は白く乾いている。先輩に何度も聞かされた言葉が頭の内側で反芻する——「装置は味方にも敵にもなる。焦ったら、声に出して手順を戻せ」。
救急ストレッチャーが到着する前にガントリーをウォームアップ。その間にスキャナのコンソールを開き、プロトコルを呼び出す。 ・頭部単純(非造影)ヘリカル:120 kVp、Smart mA、回転0.5 s、ピッチ0.8、5 mm/0.5 mm再構成、脳・骨条件。 ・胸腹骨盤CE 3相:動脈相/門脈相/平衡相。Smart Prepは腎動脈上の大動脈にROI、しきい値150 HU。非イオン性造影剤370 mgI/mL、100 mL、4.0 mL/s。 声に出して確認するたび、鼓動が少し規則正しく戻る。
ストレッチャーが滑り込むと、モニターの警告音が不規則に跳ね、救急医が短く情報を投げた。「頭部打撲、右骨盤の圧痛強。循環は保ててるが落ちそう。まず頭部単純、その後体幹造影。できる?」 「できます」自分の声が思ったより低い。研修医が静脈路を示す。「左前腕に20G入ってます。流量は今のところ問題なし」
トランスファーボードでストレッチャーからCTテーブルへ。頭部固定、レーザー合わせ、スカウト撮影。息止めは不要と耳元で告げる。「今から頭のCTを撮ります。動かないでくださいね」患者はうなずいたかどうかも分からない。ヘリカル開始。回転音が規則的に空間を満たし、コンソールモニタのプレビューが次々と並ぶ。 プレビュー画像でざっと確認すると、前頭葉の白質に淡い高吸収域。骨条件で頭頂部に形状不整の線状骨折。思わず画面に顔が近づく。 「先生、頭部で小さな高吸収域あります。骨折も」 「了解。続けて体幹。出血源見たい。動脈相欲しい」
インジェクタの画面を呼び出す。造影剤100 mL、4.0 mL/s、準備OK。ラインのテープ固定をもう一度確認し、逆血を軽く引いて穿刺部を確かめる。先輩の声が聞こえる——「確認は目と手と音でやる。機械は嘘つかないが、人は嘘をつかないとも限らない」。
「造影入れます。体が熱く感じますよ」研修医がうなずき、患者の肘をわずかに伸展させてくれる。試験注入を省略した自分の判断に、わずかなざわめきが走った。時間との勝負だ——そう言い聞かせ、スタートを押す。
数秒後、研修医の声が鋭く跳ねた。「ちょっと、止めて! ふくらんでる!」 左前腕の穿刺部がみるみる膨隆し、皮膚が光を弾く。造影剤漏れだ。指先が勝手に動き、停止ボタンを叩く。注入量、約20 mL。 「すみません、造影止めます。穿刺部確認します」自分の声は乾いている。 手袋越しに穿刺部を軽く抑え、逆血を試みるも戻りは乏しい。救急医がカテーテルを抜去。皮膚色、圧痛の程度、膨隆の広がり——機械的に確認する。記録用に漏出量をメモし、研修医に伝える。「およそ20 mL。皮膚所見は軽度。右でライン取り直せますか? 20で」
救急医の視線が刺す。「動脈相、急ぎたい。いける?」
「右肘で20G取り直し後、すぐに。設定は維持しています」
研修医が右肘正中に確実な20Gを入れる。フラッシュで抵抗なし。インジェクタのラインを接続し直し、固定を二重に。呼吸が胸の上部で浅く止まる。 「再開します。Smart Prep、ROIセット。しきい値150、インジェクター準備完了」 ガントリーが回転を始める——はずだった。 「…ん?」 コンソールに赤いバナー:Gantry rotation error. Interlock engaged. Please reboot system. 視界が一瞬狭窄する。救急医の舌打ちが、遠くで金属音のように響く。
「装置がエラーです。再起動します。5〜6分ください」 言い終える前に先輩の声が蘇る——「エラーは必ず起きる。その瞬間に現場の空気を守れ。声に出して、やることを戻せ」。 「先生、頭部の所見は既に共有済みです。再起動の間に患者さんの体位とラインをもう一度確認しておきます」 救急医が短くうなずく。「分かった。頼む」
再起動シーケンスの間、研修医と声出しでダブルチェックを回す。「右20G固定良好。流量4.0 mL/sでの抵抗なし」「穿刺部、痛みの訴え軽度。左はアイシング継続」「酸素2 L、SpO2 98%」 装置が戻る。ログイン、緊急プロトコルを再読込。デフォルトの管電圧が100 kVpに戻っているのに気付き、120に再設定。FOV、ピッチ、リコンカーネル、シリーズ名、全部声に出してなぞる。インジェクタも、レート、量、圧上限。息止め指示は「息を吸って、止める」で統一。 救急医が視線で促す。「動脈相、いけるよね?」 「はい。Smart Prepで大動脈、しきい値150。トリガー後すぐ撮ります」
スタート。造影剤が走る。研修医の指が穿刺部を見守る。皮膚の膨隆なし、痛みの訴えなし。Smart PrepのROI値が120、135、148…——150。トーンが鳴り、ヘリカルが唸りを上げて立ち上がる。テーブルが走り出す瞬間、全身の筋肉が微かに解けた。 「息を吸って止めてください——はい、楽にしてください」 動脈相のモニタがリアルタイムの断面を吐き出していく。腹腔動脈の起始、上腸間膜動脈、腎動脈。骨盤に下ると、右内腸骨動脈周辺ににじむような高吸収の斑点——contrast blush。 「先生、右骨盤内にblush疑い。門脈相も回します」 「続けて」
遅延70秒。門脈相開始。肝実質が均一に染まり、腸間膜静脈が静かに満ちる。骨盤内の斑点は動脈相に比べ淡く、しかし残っている。 スキャン完了。即座にMPRで冠状断と矢状断を吐き出し、骨盤腔のスライスを連打する。微妙な体動で生じたライン状アーチファクトは、再構成のカーネルを少し柔らかくして目立たせない。ウィンドウを血管向けに狭め、blushのコントラストを強調する。「Key Imageに入れます。3枚、アキシャルとコロも」 救急医がコンソール横で身を乗り出し、画面に目を走らせる。「OK。IVR呼ぶ。助かった」
患者をベッドに戻し、ラインの固定を研修医に託す。CT室が一瞬だけ静かになる。さっきまで暴れていた心拍が、自分の胸の内側でゆっくり着地していく。 だが、やることは残っている。造影剤漏れのインシデント記録、漏出量、対応、皮膚所見。装置エラーのログ、再起動時の再設定内容、撮影遅延時間。コンソールに残るタイムスタンプが、夜の経過を淡々と刻んでいる。
当直室に戻ると、PHSがまた震えた。今度は救急医からの短いメッセージ。「IVR移動。CTありがとう」。 椅子に深く座り、手のひらを見つめる。まだ微かに汗がにじんでいる。頭の中で、先輩の声がもう一度鳴った——「完璧は無い。けれど、戻るべき手順を声に出して戻れば、現場は必ず前に進む」。 自分は今日、その言葉をやっと自分のものにしたのかもしれない。
午前8時過ぎ、交代の先輩が白衣の袖をまくりながらCT室に入ってきた。「おはよう。どうだった?」 自分は一息に話す。造影剤漏れ、装置エラー、再起動、blush、IVR。言葉が早口になりそうになるのを抑え、最後に付け足した。「…正直、怖かったです。でも、手順を声に出したら手が動きました」 先輩は短く笑った。「それができれば一人前。今日のインシデント記録、俺もあとで見る。漏れの部位は?」 「左前腕。約20 mL。冷却で経過観察。疼痛軽度、皮膚異常なし。ラインは右で入れ直して4 mL/s通りました」 「OK。救急医には再度説明しておいて。装置エラーは保守に連絡しとく。…で、CTの設定、再起動でデフォルト戻るやつ、気づけた?」 「はい。kVpが100に戻ってて、120に直しました。プロトコル名も紛らわしいのがあって——」 「そこまで気づけたなら十分。おつかれ」
CT室の窓の外、夜の色が剥がれ落ち朝日が差していた。ガントリーは黙って輪郭だけを光らせ、次の患者を待っている。 手はまだ少し震えている。けれど、その震えはもう、恐怖だけのものではなかった。責任の重さを知った手が、現場で使うべき震え方を覚えた。 コンソールに新しい検査の依頼が入る。自分は深呼吸をして、いつもの手順を——声に出して——もう一度なぞった。
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